Jul 05, 2010
いくつかの国内旅行の話をしています
国内旅行どこが良かったのか友人の話をしたが、友人は、九州が良かったようです。湯布院などの温泉がよかったこと。行ってみたいと思っていました。私は北海道と答えました。やはり国内旅行なら北海道行っておかないとねと言う話になりました。友達も北海道でも良いと感じていたようです。ラベンダー畑などの話が含まれていません。今度一緒に行きたいという話をしてしまいました。私は沖縄に住む41歳の男性だが、自分が中学校の時の卒業旅行は九州でした。それも船に乗って。小学校は覚えていません。以上のように高校生の時代にも記憶されていません。おそらく行きと思っています。または希望者のみで、自分は参加しないのではないかできなかったか。しかし、最近の卒業旅行はすごいですね。本土から簡単に沖縄にきたり、中に中学生が、小学生北海道。適当にしてくれと言いたいですが時代の流れでしょう。
裸の男たちが銛(もり)を持ち、大きな魚(サメ)を背負って砂浜を2列で歩く。意気揚々と歩く姿は、荒々しく野性的で生命力がみなぎる。同時に、一糸まとわぬ姿から聖なる神話の世界をも想起させる。明治の文豪、夏目漱石に「天才」といわしめた画家、青木繁の代表作「海の幸(さち)」だ。
東京・京橋のブリヂストン美術館では、28歳で早世した青木の没後100年を記念し、39年ぶりの大規模な回顧展が開かれている。油彩、水彩、素描、資料など約300点で構成されているが、中でも「海の幸」は、多くの人を引き寄せる。
この日本近代美術の名作が誕生したのは、1世紀以上も前。日露戦争が始まった明治37(1904)年、東京美術学校(現・東京芸大)を卒業した青木は、7月中旬に房総半島の布良(めら)(千葉県館山市)の海岸に写生旅行に出かけた。同行したのは、友人の坂本繁二郎(はんじろう)(1882〜1969年)や恋人の福田たね(1885〜1968年)ら画家3人。「海の幸」はこの1カ月半の滞在中に描かれた。
しかし、青木は実際に、水揚げの様子を見たわけではなかった。坂本から水揚げの様子を聞き、想像を膨らませて描いたという。坂本自身が晩年の著書『私の絵 私のこころ』(昭和44年、日本経済新聞社)で明かしている。《現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています》。海にいながら、どうして、そんな描き方をしたのだろうか。
青木の故郷・福岡県久留米市にある石橋美術館の森山秀子学芸課長は「青木は目にしたことのない世界を描いている。自分のなかにわき出るものを形にした」と指摘する。青木は少年時代から文学や美術に親しみ、中学生になると級友らと文芸雑誌を編集した。東京美術学校へ入学後は、文学や哲学のほか古事記や日本書紀などを読みふけり、精神世界にのめり込んでいった。
空想世界に遊ぶことが好きだったのだろう。つまり、青木にとっては現実に見えるものよりも、自分の頭の中に作り上げた世界を形にすることの方が、より“現実的な芸術行為”だったのだ。実際に魚から血が滴(したた)るような光景を見ていたら、神秘的な「海の幸」はまったく違ったものになっていたか、そもそも描いていなかったかもしれない。
この絵は秋に発表されると大きな話題となった。「初めて日本の油絵が生まれた」と絶賛した批評家もいた。
しかし、画壇で名声を得ても、青木に幸福な生活はやってこなかった。当時としては斬新で大作だったためだろうか、絵が売れないのだ。明治38年、たねとの間に男児が誕生したが、たねの実家の援助を受けながらの生活が続いた。2年後には実父が死去したため、2人を残し帰郷。父の負債もあり、生活は困窮を極めた。友人を頼りに九州を放浪しながら、各地の風景を見たままに描いたが、ロマンもなく精彩を欠いてしまった。
ミューズ(芸術の女神)は、わずかな間しか青木のもとに現れなかった。(渋沢和彦)
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ジツオさんは、その朝も大阪城天守閣の眼下にある旧大阪市立博物館の玄関前に腰掛けていた。大阪市在住の詩人、里みちこさんが本紙1面の「朝の詩」をはじめ、ふだんのちょっとした感動を題材にした詩を朗読する。もう15年以上続き、10人前後のシルバー世代の人たちが顔を見せていた。
この朗読会の前にひと仕事終えていた。大阪城公園のゴミを毎朝集めているボランティアグループにも属している。発足して3年余り。会則があるわけでなく、出欠もとらない。持ち物はゴミバサミとポリ袋。会員は30人くらいで、69歳のジツオさんは会員番号0番。最も古いメンバーを表しているという。
十数年前に警備員をやっていたころ、たまたま訪れた公園でやっていた朗読会が気になり、参加するようになった。事情があって警備員を辞めて、数年前に大阪城公園で青テント暮らしを始めたが、小さくうずくまるようにして寡黙に里さんの朗読を聞く毎日が続く。生活苦からやがて生活保護を受けることになった。何もせずに行政のお世話になるのを申し訳なく思い、自らゴミ拾いをするようになった。ジツオさんの行動は口コミで広がり共感を生み、自然にグループができた。
定年を迎え、悠々自適だという近くに住むグループの上野三郎さん(70)がくれた1枚の紙には、イエローハット創業者で、NPO法人「日本を美しくする会」相談役の鍵山秀三郎氏の言葉が印刷してあった。
「ひとつ拾えばひとつだけきれいになる」
上野さんは「本当に良い言葉です」と話すが、公園でこの紙をある女性に差し出したら「『あなたに私の人生を縛られたくない』と怒られましたけど」と笑っていた。大阪城ホール周辺のゴミの量が、誰のコンサートかで違うそうだ。「桑田佳祐さんや松田聖子さんの時は少ないですよ。人によってはゴミばかりの時もあります。ファン層ですかね…」
隣にいた東大阪市の笹尾照さん(66)によると、捨てる人と拾う人は別々の人たちで、ゴミを捨てる人は街がきれいになっていても気づかない。野良猫やハトの餌を知らずに集めて文句を言われることもあり、ゴミ拾いといっても、いろいろな経験をするという。
口数の少ないジツオさんだが、ゴミ拾いをすると「(自分の)気分がよくなるんよ」と恥ずかしそうに語った。(大阪編集長 内野広信)
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